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イタチペディア2024では、受講生の5歳毎の回想について年代順にまとめてみました。

 

〔ここに記載されている内容は、大阪大学が主催する「中之島に鼬(イタチ)を放つ ー 大学博物館と共創するアート人材育成プログラム」の一環で、参加した受講生が各自の大阪を自分の年齢毎に振り返ったものです。〕

 

◎5歳のとき

 

5歳の夏、播州龍野に住む曾祖母の家に行くと、茶色に変色して身じろぎもしない曾祖母の顔を見た。遺骸だったのだ。端的に死を理解した。

大阪に帰ってきてから死が怖くなり、夜眠れなくなぅた。布団に入るとメソメソ泣いて体が弱くなり出した。幼稚園を休みがちになった。

そのうち、顎下腺が腫れ、切らないといけなくなった。それで堂島にあった回生病院に行くことになった。耳鼻科に有名な齊藤という医者がいるからだった。古い薄暗い病院だった。

待合室にまで消毒液の匂いが立ちこめていた。診察が終わって外に出ると明るくまぶしかった。目の前に中之島拘置所の煉瓦塀が高々とそびえていた。

わたしは、その頃いつも母と一緒だった。四六時中働いている母親を独占し、ふたりきりで出かけるのは通院といえども楽しかったのだ。

 

◎5歳のとき

 

私が初めて大阪の地に降り立ったのは5歳の頃だと記憶する。確か幼稚園の親子遠足で海遊館に行くことになったからだと思う。海遊館で何を見たか、何をしたのかははっきりとは覚えていない。それでもただ一つ記憶に残っているのは大阪が敵対都市というわけではないことを知ったことだった。それには理由がある。

兵庫生まれ兵庫育ちの私の父親は大阪が嫌いだ。大阪で働いていいた父は、大阪の話題が挙がるたびにに大阪に対する不平不満を並び連ねていた。「嫌阪思想」の元で育った私が

「大阪ってそんな悪い土地じゃないやん」と思うようになったのは、5歳の頃、初めての大阪に、一切悪い気持ちを覚えなかったからだ。

確かに生まれ育った土地とは全く違う世界なのだが、その違いに胸を高鳴らせていたのが

当時の私なのだろう。

 

 

 

◎5歳のとき

 

「新世界」、「ジャンジャン横丁」 昭和30年代生まれの人間にとって、この土地はアンタッチャブルだったし、それは今も変わらない。夜はもちろん昼間でも女一人で立ち入ってはいけない場所だ。そもそも、大人たちは皆「ジャンジャン町」と呼んでいた。

天王寺公園から動物園の横を抜け、通天閣が見える方へと続く道を、5歳の私は父に手を引かれて歩いていた。歩道に広げられた陶器市を見て歩き、短いトンネルにさしかかったとき、その先へは進めないと子ども心に思った。

トンネルの両端には、白装束に身を包んだ傷痍軍人たちが座り、アコーディオンを奏でる横には自分と同じ年頃の子供の姿もあった。敗戦から20年経っていたけれど、その頃の大阪では、新世界に限らずどこでも傷痍軍人の姿を見ることができたのだった。

 

◎10歳のとき

 

昭和40年代半ばまで、大阪市内では町内会ごとに日を決めて、「大掃除」を行っていた。

年末の大掃除とは別で、梅雨明け直後がそのタイミングだった。その日は終日、町内の道は閉鎖され、車は通行止めになる。四つ辻は巨大なゴミ集積場となった。

各家は、畳を上げ、家財道具とともに外へと持ち出し、箒と雑巾で家中を清掃するのだ。

畳の下には新聞紙が敷いてあって、それを新しいものに換えてから、殺虫剤のような白い粉を撒いた。町内もろとも、お祭りのようだった。なかでも私の楽しみは、手伝いそっちのけで古い新聞紙を読みふけることだった。

夕方のゴミ集積場は、大人の背をはるかに超える小山ができていた。それがいつどのように撤去されたのか、幼かった私はついぞ目撃することはなかった。

 

◎10歳のとき

 

1970年の日本万国博覧会のスローガンである「人類の進歩と調和」という言葉は、54年間一度も忘れたことがない。10歳の春から始まった万博は強烈だった。小学校の遠足でも行ったし、両親や親戚とも行った。人気のパビリオンをめがけて走ったし、長蛇の列にも並んで「月の石」を見た。翌日の学校では何カ所回ったかを自慢した。何度も通ってパビリオンすべて網羅した猛者もいた。あの夏、子どもの心は万博一色だった。太陽の塔の立つお祭広場では、生まれて初めて立ったまま焼きそばを食べた。外での買い食いは禁じられていたのに、親もいっしょにほおばった。外国人をあんなにたくさん見たのも初めてだった。秋になって万博が終わってしまう時には、なぜもっと延長しないのか不思議だった。

 

◎15歳のとき

 

中学3年から高校1年に上がる春休みは、長期休暇になる。暇を持て余していたある日、3年上の科学部の先輩に誘われて、万博会場の跡地に行った。京都の熱気球クラブが、遠征に先駆けて自作の熱気球を試しに揚げるのを見るために、夜明け前の始発に乗っていった。万博会場の跡地はその頃ほとんど何もなく、一面の草原だった。初めてみる熱気球は想像よりはるかに大きく、クラブのメンバーは、生き生きとしてまぶしかった。

万博開催期間中は腰から下を覆われていた屋根も取り払われ、全身を現した太陽の塔は、朝日を浴びてめちゃくちゃかっこよかった。かつてはわからない作り物としか見えなかった岡本太郎の作品は、とにかくどかんとした存在感を放っていた。造形作品に魂を奪われた、

初めての経験だった。

 

◎15歳のとき

 

15歳は、私が生まれて初めて両親に連れられて旅行で大阪に来た年。スペインのマラガで生まれ、6歳で愛知県瀬戸市に引っ越してきた私は、焼きものの街といわれる陶磁器工場ばかりの田舎町で思春期に至るまでを過ごしてきた。

初めて父に連れられて行った、戎橋のグリコ、アメ村の古着屋、店員なのかお客さんなのかわからないイカついお兄さん、、、全てが新鮮で、飛び交う大阪弁も漫才というよりは、むしろちょっとおしゃれなラップに感じた。15歳の私はダンス部でHIPHOPやブレイクダンスにハマっていた。だからアメ村でアロハシャツや、ダボダボのパーカーを買うのは、親のお金のおかげなのに、自分がすごくイケてる人間であるように思えた。そんな小さなことがきっかけで、これから3年後、まさか大阪の大学に通うことになるとは、、、。

 

◎20歳のとき

 

広島から大阪に来て1年目。関西弁を阪急梅田駅で聞いた時は心底驚いたことを覚えている。梅田は地下が入り組んでいて、迷宮のようだったし、阪急やJRも3分や5分に一回来るのは、電車が10分に一回しか来ない広島生まれの自分からしたら驚きだった。

その大都市の便利さを知ってしまったが故に、じぶんの可能性は思った以上に大きいとその時ながらに思った。と同時に、広島に帰る理由も無くなった気がする。あの大阪の広島とち違うとこもありながら可能性やチャレンジ精神みたいなところがある大阪の雰囲気は、20代を関西で過ごした両親も若い時に感じていたのかなと思いを馳せていた。今思えば、大阪に昔ながらの資本が集まる場としての魅力があったからかもしれない。

 

◎20歳のとき

 

私は、大阪市近郊に住んでいるが大阪市内の高校に進学し大学も大阪であったので、難波近辺は毎日のように行く場所だった。高校生の時の記憶では、なんばCITYのなかにロケット広場というところがあり、そこで待ち合わせ場所として多くの人が集まり賑わっていた。

大学生になり戎橋商店街のなかにあるサーティワンというアイスクリーム店でアルバイトをしていた。その当時のお店は2階が不二家のレストランで1階にサーティワンがあった。女性客が多く華やかな雰囲気のなか楽しく働くことができた。アルバイトの楽しみというと遅番のときは2階の不二家のレストランのアルバイトの人達と共に勤務後賄いの食事がでることがあった。そこで初めてドリアというものを食べてごはんとチーズがあわさった美味しさを知ることになった。

 

◎25歳のとき

 

私が25歳の頃、1980年代後半、大阪の空気は汚れていた。職場の先輩で、よく大阪に出張する人が「大阪に行って帰ると、顔や首に黒い汚れが付いている。お風呂でよく洗う。」と言っていた。

私が大阪で発見したのは、昼の定食を安く食べられる店があるということと、古本が京都より安いということだった。500円くらいで味噌汁付きの焼き魚定食を食べることができたし、京都の古本屋で高かった辞書に安い値が付いていた。旭屋書店も好きだった。京都には高層ビルが少ないから、エレベーターに乗って階を移動して分野別に置かれている本を見て回るのは楽しかった。中之島図書館の閲覧課にはお世話になった。質問をすると、調査に時間がかかることでも、迅速に調べて回答してくれた。気さくで親切な人ばかりだった。

 

◎25歳のとき

 

この頃、わたしは大阪で働いていた。広告代理店だった。同時期、大阪人の彼と付き合っていた。仕事帰りにデートする時は、たいてい梅田で待ち合わせて、食事にいったりした。

趣味はあまり合わなかったけど、付き合っていた。休日も、大阪で待ち合わせすることが多かったような、、、。京都人の私はちょっと切なかった。待ち合わせは、今はもうない阪急梅田近くのカフェだ。彼との大阪のイメージはキタで完結していて、ミナミの方は一緒に行った記憶がない。なんでかな。

25歳、仕事で接待を経験した。社の部長も一緒だった。その時、初めて北新地のクラブに行った。クラブのお姉さんは優しかった。ウーロン茶をこそっと作ってくれて「飲んでるふりしたら、ええの」と。クラブは、大人の社交場なんやなって思った、若かりし頃。

25歳、わたしにとっては大阪は仕事で地に足をつけ、プライベートはもやもやする地であった。

 

◎25歳のとき

 

2011年3月11日、東日本大震災。私は危篤状態となった父の病室にいた。

生き別れの父から、ほとんど父の記憶がない妹の手を引き、部屋着のまま、告げられた病院に駆けつけた。私と妹が生まれ、そして今、父がいる病院は、中之島駅から徒歩5分のところにある。ここがずっと帰れなかったふるさと。

父が亡くなり、17年ぶり、家の中に足を踏み入れた。私と妹は家の中を探検して、なぜ散り散りになったのか、誰も理由を知らない、家族の記憶を発掘した。その家も、25歳のうちに売ってしまった。

戦前の古い町並みが今なお残る石畳とお地蔵さんなどが、「不在」を経たことで、逆に、ものすごい存在感を増したランドマークとなっていた。私にとっては、ニューヨークよりも、月よりも遠かった大阪市福島区だった。

 

◎25歳のとき

 

春風が頬をなでる2022年4月、私は25歳を目前に控えていた。社会人1年目の緊張と期待が入り混じる中、勤務地のある中之島の街を東向きに歩く。オミクロン株の猛威も収まりつつあり、街に活気が戻り始めていた。北浜駅近くの上島珈琲店に向かう途中、大阪取引所のサイネージが新しくなっているのに気づいた。私はある人と待ち合わせをしていた。ある人は、私の憧れの人。彼女との会話を通じて、自分の未来への希望を感じる。「いつか私も、彼女のようになれるだろうか」帰り道、中之島を西に歩きながら、この街で始まったばかりの私の人生を思う。まだ25歳。これからの日々に、期待と不安が入り混じる。でも、今日のように桜が舞い、バラが咲く春の中之島を歩けば、きっと道は開けるはず。そう信じて、私は歩み続ける。

 

◎30歳のとき

 

私にとって大阪は、「歩く」街だ。「地に足をつける」という言葉がぴったりの、現実的な行為が「歩く」であり、現実的な街「大阪」だ。

30歳は、後半4カ月が新型コロナ流行期だった。不要不急の外出が制限される中、それでも人が少ない場所なら良いだろうと、大阪の街を練り歩いた。様々な石碑や名所、歴史・文化の匂いが香る街並みや地形に遭遇する。かつて確実に生きていた人々やこの土地を地続きで感じると共に、自分と今の大阪に思いを馳せる。ゆとり世代、バブル崩壊、経済低迷、、、。いつも他の知らない時代と比較され、哀れまれてきた。インターネットも普通だった私たちは、今の「この場所」と「自分」という現実に飢えているのかもしれない。

自分の足が大阪に立っている。私はこれからも大阪という名の現実を歩いていきたい。

 

◎35歳のとき

 

35歳で大阪を離れ、東京に移り住んだ。仕事抜きで大阪に帰ることのできたのは夏季休暇と正月休みだけだった。

父が亡くなり、初めて一人暮らしをすることになった母は、築150年を越える鰻の寝床のような町家をこわがった。翌年の1月、阪神淡路大震災が起こった。上町台地の地盤に立っていた、つぎはぎだらけ、修繕や改築を重ねてきたわが家も、倒壊することなく無事だった。

同じ年の5月、私は10年勤めた会社を辞め、フリーランスとして働くことを決めた。いつものように新幹線で帰って来た大阪は、不思議なほど平穏だった。阪急電車に乗れば、地震のよる生々しい傷跡が目の前にあるし、友人のマンションは全壊した。しかし、大阪はすっかり立ち直っていた。というより、何もなかったかのようだった。

 

◎35歳のとき

 

娘が小学校1年生になったとき、私は35歳。大阪市港区の、ある商業高校1年生の担任になった。秋の文化祭に向けて、夏休みの前から計画を練るような、ノリのいいクラスの担任だった。大阪の夏祭りにできる限り行き、調べて、それを文化祭に教室で再現しようという「なつまつりのつぼ」というのが、彼らの構想だ。大阪の夏祭りは愛染さんに始まり、住吉さんで終わる。班分けして、夏祭りに出かけていくことになった。わたしも娘といっしょに行った。ざっと思い出すだけで、愛染さん、生国魂さん、杭全神社、河堀神社、御幸森神社、天満の天神さん、生根神社、住吉さんなどなど、暑い夏のひと月だった。文化祭で「なつまつりのつぼ」は、最優秀賞をもらった。人生の忘れられない楽しい思い出の

一コマだ。

 

◎35歳のとき

 

35歳、銀行員稼業も10年を越えたころ。北摂の支店から、梅田支店に転勤した。芦屋にマンションを買ったばかりだったので、通勤は楽だった。支店は阪急32番街にあった。映画『ブラックレイン』で松田優作がバイクを乗り回していた場所。養老孟司の『バカの壁』が大ベストセラーになっていた。大阪北支店の廃店を皮切りに、梅田近辺の4ケ店の廃店を担当した。毎朝7時に出社。午後9時退社。11時まで『百番』という居酒屋が定番コース。大阪という場所の記憶とは言えないのかもしれない。けれど、私にとっては最も濃い記憶の大阪は、大阪市北区角田町8-47に今もある。

最も怖かったエピソードは、阪急百貨店前にある植え込みから白骨化した死体が見つかったこと。都会のど真ん中でそんなことが起こるのかと驚いた。

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