水の都 大阪は、昔から「難波(なにわ) 八百八橋(はっぴゃくやばし)」といわれてきました。八は日本では 古代には ”八雲たつ出雲 ”というように”多い”という意味でしたが 大陸から漢字が導入されてから ”末広がり”で縁起のよい数字と考えられるようになりました。
「808ダイエット」は、東横堀川にかかる橋が舞台の物語です。
東横堀川は大阪城の外濠として開削された大阪市内に現存する最も古い堀川です。現在は、高速道路の高架に蓋をされており、14本の橋がかかっています。
葭屋橋(よしやばし)
東横堀川の北端、大川からの分流点に架けられた葭屋橋は、俗に築地と呼ばれた蟹島遊廓への通路として設けられました。
今橋(いまばし)
大阪の陣の様子を描いた絵図にこの橋の名が記されていることから、豊臣時代には既に存在したと考えらます。
江戸時代には、橋の西側に平野屋五兵衛、天王寺屋五兵衛など大物両替商が軒を並べ、大阪の金融の中心地として繁盛した。
高麗橋(こうらいばし)
慶長9年には、擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていたそうです。
この橋の西詰には幕府の高札(農民や商人を取り締まる基本的な決まりがかかれた看板)が立てられていました。
平野橋(ひらのばし)
現在の平野橋は昭和10年につくられたもので、逆ランガー桁とよばれる珍しい形式で、この形式の適用は世界で初めてであると言われており、上をかぶさる高速道路の腹が近く感じられます。
大手橋(おおてばし)
別名、思案橋(しあんばし)と言われています。
大阪城の大手門に通じる大手通にあたるのですが、なぜか橋の西側で行き止りになっており、橋を渡って左右どちらに行くか迷うために思案橋と呼ばれるようになったそうです。
本町橋(ほんまちばし)
現役の橋としては、大阪市内最古の橋です。豊臣秀吉が大阪城築城に際して東横堀川を外堀として開削した時に架けられたと考えられていて、江戸時代には公儀橋の一つとして幕府が直轄管理する橋でした。
農人橋(のうにんばし)
中央大通りのジャンクションの真下にあり、少し曲がっています。豊臣秀吉が埋め立て造成を命じた当初の船場には、田畑が広がっていて、上町台地の農民が西側の船場の田畑を耕作するため渡ったため、農人橋と名付けられたそうです。落語「まんじゅうこわい」の舞台で、昔はカーブした水流の関係で、死体があがってこないと、身投げする人が多かったそうです。
久宝寺橋(きゅうほうじばし)
橋名は、近くに久宝寺という寺があったからとも言われ、東横堀開削の際、河内の久宝寺(現在の八尾市)から来た工事関係者がこの辺りに住み着いたからとも言われています。
安堂寺橋(あんどうじばし)
江戸時代、この橋通りは、玉造から生駒の暗峠(くらがりとうげ)に達する奈良街道に通じる重要な道筋に当り、江戸時代初期にはあったと言われています。
末吉橋(すえよしばし)
南蛮貿易で活躍した平野の豪商末吉孫左衛門が、通行人の便を図って作ったと言われ、江戸時代は「孫左衛門橋」と呼ばれていました。末吉家の別邸が橋の西詰にあったとも言われています。
九之助橋(くのすけばし)
江戸時代初期には既に架けられていましたが、名前の由来は不明となっています。現在、橋のたもとには、公衆トイレが設置されています。
東堀橋(ひがしほりばし)
東横堀川に架かる橋の中ではかなり新しく、周防町通(現在はアメリカ村のメイン通りやヨーロッパ通り)が拡幅整備された昭和11年、鋼製アーチ橋として架けられました。
瓦屋橋(かわらやばし)
瓦屋橋の東詰一体は江戸時代には南瓦屋町と呼ばれ、瓦の窯や土取場があり、瓦生産が行われており、今の中央区辺りは、江戸時代迄縦横に運河が走り、瓦だけでは無く米相場の米も繊維もすべて船で運搬していたそうです。
上大和橋(かみやまとばし)
東横堀川はこの下流で終わりになり、直角に西へ曲がって道頓堀川になっています。元和元年に道頓堀川が開削された後は、物資の集散地として荷車などが集まるところとなったと言われています。