top of page

2023年度 <場所のナラティブ> 都市のアルケオロジー  「中之島デリバティブII」

ワークショップの内容をご紹介します。


ワークショップ 1日目 8月5日(土)
 はじめに永田靖先生から林慎一郎先生の紹介があり、林先生からこれまでの上演作品についての紹介があった。永田先生と林先生のお話と、受講生の質問で印象に残った部分を記載する。
永田:場所というものが持つ問題性みたいなものがあると私たちは考えていて、人文学の研究の一つに場所についてがある。普段私たちが住んでいたり、通り過ぎたりする場所。場所との関係の中で私たちの暮らしが営まれている。日常的に目にふれている場所だけではなく、一歩踏み込んで、制度や決まり、歴史、約束ごと、慣習などがくっついている場所をどういう風に考えるか。場所を考えるのは単純なことではない。
 林:都市とそこで暮らす人の関係をテーマにした作品を作り続けている。一人劇団で、2007年から毎回役者を集めて、都市を扱う戯曲を上演している。変わりゆく大阪。私たちにとってこの町はなんだろうかと考え、自分たちの足で町をつかもうとした。大阪マラソンは当時大人気で、選考で落ちて、僕は自転車で町を北から南へ走り、変わっていく風景を作品にした。岩手県にある「風の電話」を知った。東日本大震災で行方不明になった方と話す電話。どこにもつながっていない美しい電話ボックス。何か報告したり通話したりする演劇的設定を利用した作品を作った。電話ボックスはずっと気に入って使っている。今年の3月に風の電話に行ってみて、フィクションを味わってきた。能舞台での上演を行った。「道行」というのは、旅の人がやってきて何者かと出会って帰っていくものである。僕の作品にはどこかに旅をして何かと出会うことが多い。能舞台の構造を利用させてもらった。2016年の『PORTAL』という作品は、永田先生と出会うきっかけとなった作品で、亡くなった維新派の松本雄吉さんが演出した作品。空港の騒音問題が解決されると空地を払い下げ、猫の額のような空地ができた。空地から空地へ飛び歩く人がいてもいいのかなと物語を発想し、都市がどう出来上がるかを作品化した。今回のパフォーマンスでは、大阪をある視点からつかみだす。市民の皆様にも考える契機を呼び起こすことができたらいいと考えている。
 永田:今いろいろお話をしていただいて興味深かった。大阪の具体的な場所をテーマにされていて私たちのテーマにぴったり。演劇で場所を描くときの描き方は、背景に描かれる。モスクワだったり、江戸時代の長崎や、今の東京だったり、架空の場所や、近未来の都市であったりする。それでもそこはどこかの場所である。Theaterの語源は古代ギリシア語のテアトロン(theatron)。オルケストラ(orkhēstra)という円形のものもあったが、見る場所、観客席が一番大きいのはテアトロン。経緯があって、16世紀にシアター座という名前になった。今ではシアターである。見る場所という意味が含まれているところが面白いところである。ドラマと違って、劇場に来ないと見れない。俳優がコミュニケーションする形式の中で、場所が描かれる。主題化されるにせよ、しないにせよ、演劇の中には場所が必ずある。
 永田:ツアーで、観客を歩かせるやり方について、着想をお聞きしたい。
 林:松本雄吉さんが「床が動いたらいいのにな」という話をしたのが引っかかっていて、劇場の床は動かないけれど、みんなが動けば、いろいろな話を重層的に重ねることができ、一斉に重ねる条件として外にも出て行こうとした。虚構性をリアルな空間に重ねるとき、能動的に関わり、俯瞰的に考える人もいるかもしれず、豊かに感覚が広がるんじゃないかと考えてやった。歩きながら、観光案内的でなく、メッセージを読むことで別の町に見えてくるように誘発できた。
 受講生:なぜ大阪を取り上げておられるのか。
 林:自分がここに暮らしていて、生活がここにあるから。東京と比べると、東京人という純正な人は少なくて、集まってきている。絶妙に飾られている。大阪人はつっこみやすく、つっこんでもむっとしない感じがする。大阪の町の匂いがあったりする。ここで暮らしている僕しか作れない感触がある。ほかの都市でも可能ならばやりたい。

<8/5 の課題> 以下の質問にGoogleFormで回答すること。(8/14締切)
一年後の、大阪はどうなっているとおもいますか?
それにそなえてあなたはどうしますか?
100年後の大阪はどうなっているとおもいますか?

(昨年度の受講生にお聞きします。)
昨年自分が予想した「一年後の大阪」を振り返ってください。
予測したことで、この一年あなたの行動や考え方になにか変化はありましたか?

==================

ワークショップ 2日目 8月6日(日)
 林先生は1日目の欠席者のために、簡単な振り返りを行いながら話を始めた。
 林:永田先生と二人で今回の企画のテーマ<場所のナラティブ(物語)>「都市のアルケオロジー(考古学)」で考えたいこと、やりたいことを話した。私たちは暮らしている場所や訪れる場所の様々な制約や慣習の中で関係を持ちながら暮らしている。アートとしてとらえて劇を作る。みなさんと一緒に作る。劇場から観客と一緒に町に出る。今回も中之島を中心に現地で作品を作る。
 中之島という島の成り立ち、大阪という場所においてどうやってできて利用されてきたのかを考える。新たな都市計画の段階に入っていて、中之島を大阪のシンボルとして作ろうとしている。その流れの中にプロットできる。位置づけることができる。ざくっというと、もともと大阪は海だった。京都から砂を運んできて埋まってくる。中州ができ、島になっていく。島だらけ。大阪は島の町。地名に島のつくエリアが多い。中之島は砂が集まってできた中州。運命的に砂が集まる。砂ざらえ、川ざらえを競争するイベントがあったほど。天保山は、川沿いの砂を運んでできた日本一低い山。
 中之島から連想されたものは、海、中州、島、葦の島、湿った地面、水辺、和歌、難波八十島、砂上都市、水の都、煙の都、東洋のマンチェスター、天下の台所、日本の玄関、蔵屋敷払い下げ。昔、重要だった中之島が、今においてどのくらい重要なのか。どういう風に使おうとしているか。「要するに、中之島をシンボルにしたいねん。ほら、マンハッタンとか、シテ島とかあるやろ。あんな感じのシュッとした島になったらええねん。知らんけど。」
 地図を見て、中之島の形に注目してみた。現代においては中之島が大阪に残された船と見えなくもない。2008年に「中之島は大きな帆船」というイベントが大阪21世紀協会によって行われた。福田紀一著『霧に沈む戦艦未来の島』(河出書房新社,1975)という中之島が戦艦となり出撃するという脱力系ユーモア小説もある。そういう風なことを考えるのも強引ではないのかなと思う。
 モチーフとして使ってみようかなと思うものに戦艦「最上」(もがみ)のマストがある。有名なのは2代目で、第二次世界大戦のときの巡洋艦である。初代「最上」のマストは、水都大阪のイベントのときに撤去になって、呉市海事歴史博物館に移されて保存されている。最上は帝国海軍の通報艦であった。小ぶりな戦艦が走り回って手旗信号で伝える役割の船。そういうタイプの戦艦は無くなった。
 「通信手段は格段に発達したが、相変わらず過去にメッセージは送れないし、未来へ送るメッセージは超低速」。今は、何か未来に残しましょうと置いておいて、保存しておこうと手間をかけてやっていくことしかできない。旗振り通信と繋がってイメージする。
 中之島=「船」という虚構の中で、
 ・町の未来を観測する
 ・過去(東)~未来(西)へメッセージを送る(旗で)~
この虚構の中で遊んでいただく。リサーチしていただく。作品の中に落とし込んで、中之島から、先のことを考えながら今を生きていく。

<8/6 配布したリンクなど>

中之島は大きな帆船
https://www.osaka21.or.jp/heartosaka/hansen/miha.html


福田紀一『霧に沈む戦艦未来の城』河出書房新社
https://nakanoshima-daigaku.net/pdf/tomin_vol19.pdf


旗振り通信
https://www.youtube.com/watch?v=hrAH28G7I_U


<8/19 皆さんとやってみたいこと>

①1年、10年、100年後、残らない風景を記録する
→中之島開発計画を参考に撮影に赴くエリア決定
https://www.nakanoshima-style.com/pdf_council/vision_concept.pdf

②過去(東)→未来(100年後)(西)で旗振りを行う最適なルートを決定する

③未来へ手旗で送るメッセージを検討する
→未来へのメッセージではなく、100年後に知っておいてほしい「今」を手短に伝えるメッセージ

===================

ワークショップ 3日目 8月19日(土)

 熱中症になりそうな暑い日だった。早くからスタジオに来ている人数はいつもより少なかった。定刻に遅れ気味ではあったが、林組の役者さんたちも含めて、たくさん集まってきた。
 前回、林先生から旗振り通信について「自分が見る人がやっていることは、何個か前の橋の見えない人がしていることで、全然知らない状態から送られて、自分はどう受け止めてしまうのか、その感覚を味わってみる。」と聞いていた。今日はそれを試す日だ。しかし、望遠鏡を持参してこなかったので、肉眼で見えるかどうか不安。スタジオで林先生から旗振り通信の信号の読み方や振り方を教わる。今日は旗無しで行う。
 スタジオ内で、1年後、10年後、100年後に残らないもの写真を撮りに行くエリアごとに、行きたい人が挙手をしてグループ分けをした。西から東の橋に信号を送るため、橋ごとの担当者をグループ内で決める。林先生と役者さんたちは東の端まで、電車で移動する。ほかの人は、帽子をかぶり、日傘をさして徒歩で移動し始める。
 「これ無理ですよね?」「そもそもどこにおられるかがわからないです。」「見通しは良いのですが、」「私は見えてますか」「見えてないです。」といったメッセージがLINE上で交換される。私も同感で、橋の真ん中に立つという取り決めもしていなかったので、メッセンジャーを特定することが難しかった。通行人だけでなく、橋の上の橋灯の近くで止まって休んでいる人もいたからだ。
 そのうちに、ルートマップがLINEに送付される。〇印が次々と記されていく。
天神橋〇→ なにわ橋〇 → 鉾流橋〇→ 水晶橋〇→ 大江橋〇→ 中之島ガーデンブリッジ〇→ 渡辺橋〇→ 田蓑橋〇→ 玉江橋〇→ 堂島大橋〇→ 上船津橋〇→ 舟津橋〇 完走‼
 永田先生から「ご苦労様です。最後まで到着しさすがです。素晴らし!」とメッセージをいただく。
「橋の袂で答え合わせ中。正解ならずでした」のメッセージが届く。

 中之島の東端に2009年2月まで最上のマストがあった。通報艦最上がどのような役割を果たしたのか、通報艦についての記述を探してみた。「イタリアのマルコーニが無線通信を発明し特許を得たのは、日清戦争が終わった翌一八九六年(明治二十九)のことである。連絡はすべて艦艇間で直接行うか、通報艦と呼ばれた専門の艦が司令部から命令を受領し、艦艇間を回っていちいち通報するのである。しかし洋上に展開し常に移動する艦艇間の連絡は、宛先艦艇を見つけるだけでも困難な作業であった。」(田中宏巳著 『秋山真之』 吉川弘文館,2004,p.38)、「技術的に通信量に限度があり、電波状態の影響を受けやすいため、日露戦争中も艦隊間では小型艦艇が通報任務を負い、長文の通信を配信する従来の方法をやめるわけにはいかなかった。」(同 p.111)最上は日露戦争後の1908年に進水式・竣工。1912年に一等砲艦に類別を変更した。
 今回の旗振り通信においても、宛先を見つけるだけでも困難な作業だった。橋から橋へと移動し、宛先を探して近づいて動作を確認することも行ったのだった。

(担当:近江由紀子)

bottom of page